くまべやかた
---- くまべやかた ----
別名: (なし)

平成17年11月26日作成
平成17年11月27日更新

菊池氏の重臣、隈部氏の居館

隈部館主郭部の建物礎石
隈部館の主郭部(奥の山は猿返城)

データ
隈部城について
隈部館概要
隈部館へGO!(登城記)
隈部館戦歴
隈部館の素朴な疑問


 

■データ

名称 隈部館
くまべやかた
別名 とくに無さそう。
築城 はっきりとしない。
破却 これもはっきりとしない。
分類 山城(標高342m)
現存 空堀、石垣、桝形。
場所 熊本県山鹿市菊鹿町上永野(旧肥後国の山鹿郡)
アクセス まずは、菊池を目指そう。
JR熊本駅から国道3号線を北上、「山室交差点」から右折し国道387号線に入る。ひたすらまっすぐ行って、西合志町、泗水町を過ぎるといよいよ菊池市だ。
菊池川を越え、「深川」交差点も越え、さらに1キロ先の「下北原」交差点を右折、菊池市街へ入るが、400m先の「北原」交差点で左折し、そのまま県道18号(菊池鹿北線)を北上しよう。
約3キロ行くと、「菊池市稗方(ひえかた」交差点に「鞠智城1Km ← 」と大きな看板があるので、素直に左折し、坂道をのぼっていくと大きな八角形の建物が見えてくる。鞠智城跡の大きな公園だ。
そこを通り過ぎて山をくだると突き当たるので右折しよう。500mくらいで城北小学校なので左折だ。さきほどの稗方交差点で左折せず直進してもここに出るらしい・・が拙者は行ったことない。
さらに500mくらい行くとY字型交差点になるが、菊鹿温泉の看板とともに、「←あんずの丘/菊鹿町役場」、「隈部館跡→」とあるので右の道を進もう。宮原、上永野への道だ。
2キロ余りまっすぐ行くと、上永野でまた看板がある。「↑矢谷渓谷/相良観音」、「隈部館跡→」とあるので右折だ。途中、三叉路のようなカーブもあり迷いそうになるが、要所には看板が出ているので、道なりにまっすぐ行こう。
1.5キロほどで突き当たりのようなところへ出るが、「←隈部館跡」の案内に従って左折だ。そしてさらに、「←隈部館/隈部親永公一族墓地公園」の標識に従って左折し、山道を登っていくと、大きな駐車場がある。無料なので安心して館跡を散策しよう。
菊池からも結構遠いが、案内標識が充実していて、本当に助かるよ。



■隈部城について
このページで紹介する「隈部館(くまべやかた)」を「隈部城(くまべじょう)」と呼んでも、もちろん間違いではない。
ところが隈部城というともう一つ、超有名なお城がある。菊池氏の本城、隈府城(わいふじょう)だ。隈府城は別名、隈部城(くまべじょう)ともいう。(他にも別名多数)

戦国時代、菊池氏が滅亡したのち、その本城だった隈府城は、赤星(あかほし)氏、ついで隈部(くまべ)氏が城主となった。戦国末期、佐々成政(さっさなりまさ)が肥後国主のとき、肥後国人一揆の発端となる隈府城籠城戦を起こしたのが隈部親永(くまべちかなが)だ。隈部氏は、清和源氏・宇野氏の末裔といわれ、代々菊池氏の重臣であった。

拙者は隈府城のことを別名・隈部城と呼ぶのは、隈部親永が城主となって以降のことと思っていたが、全然違っていた。
隈部親養氏「清和源氏隈部家代々物語」によると、隈部家第十六代・持直(もちなお)ははじめ宇野源次郎と名乗っていたが、姉の子・菊池武房(きくちたけふさ)から忠節の功に対する恩賞として、隈府の古名「隈部」の姓を賜ったということだ。
この菊池武房というのは、元寇のときの菊池家惣領で、蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)元寇防塁の上に座っている、あの涼しげな人物である。

当ホームページでは、菊池氏の本城を隈府城、隈部氏の居館を隈部館と呼ぶこととした。




■隈部館概要

隈部館の主、隈部氏(くまべし)は、肥後国のもっとも有力な国人のひとつであり、その出自は清和源氏(大和源氏)という。
隈部親養氏「清和源氏 隈部家代々物語」によると、第八代・源頼治(みなもとのよりはる)が大和国宇智(うち)郡宇野荘に住んだことから宇野氏を称し、第十代・宇野親治(うのちかはる)は、保元元年(1156)、崇徳上皇(すとくじょうこう)に召され保元の乱(ほうげんのらん)に参加したものの、戦いに敗れ、肥後国の菊池隆直(きくちたかなお)へ預けられたという。隆直は親治を客遇し、山鹿郡津留(つる)に領知を賜ったので、以来、山鹿郡に土着し菊池家の客臣となった。宇野親治は狩りの途中で温泉を発見し山鹿温泉の礎を開いたという。

くだって、第十五代・宇野詮治(うのあきはる)の長女は菊池家の惣領・菊池隆泰(きくちたかやす)の室となり、その長子がのちに菊池武房(きくちたけふさ)となる。武房は元寇で活躍する菊池家棟梁だ。つまり隈部氏は菊池氏の外戚になったわけで、菊池家内部でも大きな力をもったことだろう。宇野詮治の息子は、はじめ宇野源次郎と称したが、御館・菊池武房より宇野氏歴代の忠節を賞して、「隈部」の姓を賜ったことから隈部持直(くまべもちなお)と名を変えた。隈部は、菊池家の本拠地、今の菊池市の古名という。相当な信頼を得ていたものと思われる。

これ以降も隈部氏は菊池氏に従い、元寇、多々良浜の合戦、南北朝の戦いなど、一貫して菊池氏に従って戦い、忠勤に励んだ。とくに第二十二代・隈部忠直(くまべただなお)は、菊池持朝(もちとも)・為邦(ためくに)・重朝(しげとも)の三代に仕えた元老の筆頭であった。文明十三年(1481)菊池重朝が興行した万句連歌では一亭を預かったという。

しかしながら時代の流れか、御屋形である菊池氏の勢力は次第に弱っていく。菊池能運(きくちよしゆき)はとうとう隈府城を追い出され、肥前高来郡へ有馬氏を頼って逃れた。
この事件は一般的には、能運の大叔父である宇土古城の宇土為光(うとためみつ)が守護の地位を欲し、能運と戦いこれを追放したもの、と云われている。ところが、阿蘇品保夫氏は、相良家の秘蔵書『歴代参考』の記事から、隈部上総介(くまべかずさのすけ)が能運に謀反を起こして追い出し、その跡に宇土為光を迎え入れた、という説を提唱している。どちらの説が正しいか判じ難いので、ここは両説を紹介するにとどめよう。

さて、このページで紹介する隈部館は、八方ヶ岳(はっぽうがたけ)の峰続き、猿返城(さるかえしじょう)、米山城(よねやまじょう)を詰の城(つめのしろ)として、猿返城の西麓に築かれた居館だ。居館といっても深い谷に接する高地で防御力は弱くないと思う。
隈部館がいつごろ築かれたか定かではないが、第二十六代・隈部貞明(くまべさだあき)が猿返城を修築拡張し、その城外に「私館を構えて居住」したと同書にあるので、これが隈部館のことかもしれない。

やがて菊池氏が滅ぶと、大友氏の支援を受けた赤星氏が隈府城に入り、隈部氏と対立するようになる。
永禄二年(1559)五月、隈部氏第二十八代・隈部親永(くまべちかなが)と赤星親家(ちかいえ=道雲どううん)は合勢川(あわせがわ)において合戦に及んだ。この戦いは隈部方の大勝利に終わったが、大友氏を後援とする赤星氏は勢力なお盛んであり、九州におけるひとつのパターンだが、隈部氏は肥前国の龍造寺氏の支援を受けるようになる。

天正八年(1579)、龍造寺勢が肥後へ進攻、筒ヶ岳城(つつがたけじょう)、長坂城を落とす。翌天正九年(1580)、龍造寺勢は再び肥後へ進攻、隈府城を取り囲んだ。城主・赤星統家(あかほしむねいえ=親隆ちかたか、道半どうはん)は人質を出して降伏、合志氏の竹迫城(たかばじょう)へ移った。これにより、隈部親永は隈府城へ入り、ここを本拠とした。隈部館には、一族の富田氏続を城代として置いたという。隈部氏の勢力は山鹿郡、菊池郡に及び、国人とはいっても大勢力となった。

このあとの親永の活躍は隈府城を中心として行われる。そして、天正十五年(1587)、肥後国主となった佐々成政(さっさなりまさ)に反抗、国人一揆(こくじんいっき)へと騒動が拡大していく。親永は息子の第二十九代・隈部親安(くまべちかやす)とともに戦ったが、黒田如水(くろだじょすい)らの説得に応じ開城、親永は柳川城(やながわじょう)の立花宗茂(たちばなむねしげ)へ、親安は小倉城(こくらじょう)の毛利勝信(もうりかつのぶ)へ預けられ、やがて両人とも切腹させられた。だまし討ちともいう。
隈部氏はここに滅んだ。




■隈部館へGO!(登城記)
平成16年(2004)8月14日(土)

菊池からさらに北上、隈部氏の居館を訪ねよう。
右に左にとかなり遠いが、案内標識が実に充実していて迷うことなく到着。

さっそく居館の正面から、いざ参らん。
古ぼけた石碑に「熊本県指定史跡 隈部館跡」と彫ってある。
凹型になった通路
両側は土塁だろう、凹型の道を行く。
すぐに広い空間に出た。馬屋跡だ。馬を飼うには十分な広さだ。
馬屋あとは平坦だ

さらに進むと空堀だ。くっきりと跡が残っている。
主郭正面の空堀

空堀を渡ると、石垣で囲まれた枡形だ。この枡形は近世城郭の枡形の祖形として貴重なものだそうだ。
きっとここには門もあったことだろう。
主郭部入口の枡形 枡形の先には鳥居

枡形を抜けると、隈部神社の鳥居が迎えてくれた。
そして広い広い平坦地だ。ここが隈部館の主郭で、四棟の建物があったそうだ。
一部、復元されてはいるが、おびただしい数の礎石が転がっている。その一角には、庭園跡があった。居館跡の礎石はままあるが、庭園の跡とは珍しい。
隈部館の庭園の跡

我々は、戦国武将といえば戦いの毎日だったろう、と考えがちであるが、もちろん戦いの無い日のほうが圧倒的に多いはずで、隈部親永といえども、この庭園を前に花や月を愛でながら酒を飲んだことであろう。現代人と同様昔の人も、日々悩みながら、そして酒を飲みながら、暮らしていたのだと、拙者は思う。

さて、主郭部の端は急斜面になっていて、防御に意を用いているのが分かる。
反撃の陰道、という標識があったが、根元がボロボロで、元々あった場所から移動しているようだ。
主郭部の下に腰曲輪のような地形あり

主郭部からもう一段、高い部分へのぼってみる。今では隈部神社が鎮座しているが、当時は何だったのだろう。櫓でも建っていたか。
最上部には隈部神社

神社の裏へ廻ると、堀切がきれいに残っている。背後からの攻撃をここで断つのだ。
残念なのは盛夏なので、草ぼうぼうで堀切が埋もれていることだ。
主郭部背後の堀切(丸太橋が架かっている)

さらに奥へ進むと、隈部親永らの墓が並んでいた。
その奥には本城・猿返城が控え、ここにかつて強大な国人、隈部氏があったことをそっと誇っているようだった。
隈部親永主従の墓と猿返城




■隈部館戦歴

◆永禄二年(1559)五月、合勢川の戦い(あわせがわのたたかい)。赤星親家(あかほしちかいえ)は隈部館の隈部親永(くまべちかなが)を討つために出陣、長坂城主・星子中務を大手の将として400騎、一族の若大将・赤星蔵人(あかほしくらんど)を搦手の将として400騎、自らも700騎を率いて木山に陣をとった。一方、隈部軍は、大軍を引き受けては勝ち目はない、と打って出て、菊池郡城北村池田の灰塚に陣をとった。五月二十一日、戦端が開かれた。血気にはやる赤星蔵人は真一文字に斬りいったが、隈部方の鉄砲が命中、「よけ」を枕に討死した。「よけ」とは苗代田をつくる際、水のはけ口におく藁で作った枕のようなもの、のことで、のちにこの地を「よけ枕」、横枕、と呼ぶようになった。この日の戦いは隈部方の勝利に終わったが、大軍をたのむ赤星勢は兵を退かず、こう着状態となった。五月晦日、大雨で油断している赤星勢に隈部軍が夜襲を敢行。赤星勢は総崩れとなり、命からがら隈府城へ戻った。(山川出版社 『熊本県の歴史』、 隈部親養氏 『隈部家代々物語』)



以上




■隈部館の素朴な質問
Q1.主君・菊池能運に叛旗を翻したのは誰か?
    隈部館概要でも紹介したように、文亀元年(1501)、肥後守護・菊池能運は隈府城を追われ肥前高来郡へ逃れた。
    この事件には宇土為光反乱説と隈部氏反乱説とある。ここでは後者に注目して、では、隈部氏の誰が叛旗を翻したのか、考えてみよう。

A1.阿蘇品保夫氏「菊池一族」に紹介されている、相良家の秘蔵文書『歴代参考』には、菊池能運に叛旗を翻したのは隈部上総介とあるそうだ。
   では、隈部上総介とは誰だろうか。
   守護に叛旗を翻し、そして打ち勝つだけの兵を集められたということは、重臣隈部家の中でも当主クラスだと考えてよいのではないだろうか。
   そう考えて、隈部親養氏の「清和源氏 隈部家代々物語」をみると、隈部家第二十二代・隈部忠直(くまべただなお)がまず目につく。
   荒木栄司氏「肥後古城物語」にも忠直が宇土為光を迎え入れたという説を紹介している。たしかに忠直は菊池家筆頭家老のような感じで、実力はピカイチだろう。
   しかし、明応三年(1494)死去とあるので、これには当たるまい。
   次に、隈部家第二十四代・隈部親朝(くまべちかとも)が上総介とある。
   ところが、その活動については同書にほとんど記事がなく、どんな行跡があったか全然分からない。
   さらに、親朝の長子・隈部運治(くまべゆきはる)も上総介とある。
   しかしながら、彼は肥前に逃れた能運の肥後守護復帰に奔走していて、能運急死ののちはその菩提を弔うため出家し隈部家を継がなかったという。
   謀反の主とは考えにくい。
   他には適当な人物が見当たらないので、ここは謀反があったとするなら、隈部親朝と考えたい。
   ところで、能運出奔について同書に何と書いてあるか、興味津々だったが、単に『宇土弾正大弼為光の為に謀られ、隈府居城を奪われ給う』と
   そっけない記述が数箇所あるだけだった。
   あ、そうか。阿蘇品氏の説は現代に出されたものだから、昭和四十年代に出版された本に載っているわけないな。
   第一、自分のご先祖様を謀反人でした、とは書くわけないし。。



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