とみぐすく
---- とみぐすく ----
別名: (なし)

平成18年10月29日作成
平成18年10月29日更新

山南王・汪応祖の居城

豊見城の遠景
豊見城遠景

データ
豊見城概要
豊見城へGO!(登城記)
豊見城戦歴


 

■データ

名称 豊見城
とみぐすく
別名 とくにないようだ。
築城 14世紀末〜15世紀初めころ、汪応祖が築城したといわれる。
破却 15世紀初めころ、尚巴志の火攻めで落城したといわれる。
分類 平山城
現存 とくになし
場所 沖縄県豊見城市豊見城(旧琉球国)
アクセス 目印は、ズバリ「豊見城城址公園」だが、現在休園中だ。
那覇空港から国道332号線を右折して那覇市街方面を目指す。約3Km先で国道332号線は国道331号線に変わるが、ここで直進すれば「名護・那覇市内」、右手前にカーブすれば「糸満・豊見城」へ行くわけだが、ここはまっすぐだ。さらに500m先の「山下」交差点で右折しよう。右折すると、左は奥武山公園(おうのやまこうえん)、右前方にはスーパーホテル那覇がある。
約600m先の「山下南」交差点は上方をモノレールの高架が走っている。しかし、かまわず直進だ。道路標識には「旧海軍司令部壕公園」と書いてあり、期待は膨らむぞ。そこから800mくらい先、小録病院の手前、「小録東」交差点を左に入って海軍壕とは違う道を進むのだ。約1キロで、「豊見城城址公園」の大きな看板がある。ところが、公園はずっと休園中で入れない。車を停める場所もないようなので、タクシーで行くのがいいぞ。




■「城」の呼び方について

沖縄では、城と書いてグスクと呼ぶ。
つまり、城(グスク)というのは、沖縄地方のお城の呼称だ。そのつくりは本土のお城とは随分と違っていて、曲がりくねった石垣が印象的だ。
となると、沖縄のお城はどう呼べばいいのだろうか?

地名としての豊見城は現地ではトミグスクと読むが、では豊見城にあるお城は、
  @豊見城 と書いて、トミグスクと呼ぶ
  A豊見城城 と書いて、トミグスクジョウと呼ぶ
のどちらがふさわしいのだろうか。

ガイドブックなどは結構、「○○グスクジョウ」と「城」の字を重ねて書いてあるのが多い。たしかに最後に「ジョウ」がつくと馴染みやすい、というか分かり易い。
豊見城のお城の跡は、「豊見城城址公園」となっていて、トミグスクジョウシコウエン、と読んだ。
しかし、当時の沖縄、つまり琉球の人たちは、○○ジョウ、とは呼ばなかっただろうから、このホームページでは「城」の字を重ねず、○○グスクと呼ぶことにしよう。
といっても、あまりこだわることなく、例えば首里城は通例にしたがい「シュリジョウ」と呼ぼう。



■豊見城概要

「豊見城」といえば、オールド甲子園ファンは豊見城高校(とみしろこうこう)を思い浮かべるだろう。
その豊見城高校のある豊見城村(とみぐすくそん)は少し前に市に昇格し、豊見城市(とみぐすくし)になった。「豊見城」は、今ではトミグスクと読む。ということは、豊見城高校もトミグスク高校と呼ぶのだろうか?? と、ずっと疑問に思っていたので、沖縄のタクシーの運転手に聞いてみた。すると、
  「いや、トミシロコウコウ」
と一言。
へぇ、そうなんや。
豊見城高校の校舎

さて、その豊見城高校の近くに、豊見グスク跡はある。漫湖(まんこ、、、、え?)のほとりにチョコンとある丘で、たぶん言われないと、そこが城跡だとは気づかないんじゃないだろうか。
パッと見たところ、そんなに険しそうでもないし、高くもない。
草原の中にポコッと盛り上がっているような感じがするが、麓の緑は草原ではなく、実はマングローブだ。つまり水辺だ。
それに、近づいてみると、結構な急斜面、というか崖に囲まれている。ふむふむ、侮れぬな。

豊見グスクは、14世紀末から15世紀初めの頃、汪応祖(わんおうそ)が築いたといわれる。
沖縄の中世は、沖縄本島を三つに分けた、北山(ほくざん)、中山(ちゅうざん)、南山(なんざん)の三勢力による戦国時代で、それぞれ「王」を名乗り抗争した。
汪応祖は、そのうちの南山王の従弟で、1404年、明の皇帝から「山南王(さんなんおう)」の称号を賜った。

ところが、汪応祖の兄・達勃期(たぶち)は弟の栄達を妬み、1414年、汪応祖を殺して自ら王位に就いた。
しかし、どこの世界でも同じで、こういう行為は人々の反感を買い、按司(あじ=地方長官のこと)たちは兵力を集め達勃期を倒した。その跡には、汪応祖の長男・他魯毎(たろまい)が国政を執った。(「豊見城村史」第九巻 『文献資料編』)

ということは、豊見グスクが南山の中心だったということだろうか?

こうして南山の内訌は収まったが、沖縄全体をみると、中山の尚巴志(しょうはし)が成長しており、北山を平らげ、いよいよ南山に迫ってきた。
年不詳だが、尚巴志は豊見グスクを攻め、火攻めで落城させた、と云われている。南山滅亡は1429年のことだ。こうして尚巴志は琉球全土を統一した。(第一尚氏王朝)

その後の豊見グスクについては、よく分からないが、荒れ果てていたそうだ。

そして、本土でいう幕末、1853年にアメリカのペリー提督は琉球に立ち寄った際、豊見グスクを訪問している。この当時は城壁が残り、城門には「シナ錠」がかかっていたそうだ。ペリー提督一行は、城壁にへばりついたガジマル(何かの植物だろう)を足掛りに城壁を乗り越えると、石垣に囲まれた空き地に出たという。(ペリー提督遠征記)

豊見グスク跡の頂上には、「豊見瀬御嶽」が祀られていたが、参拝する人は丙(ひのえ=火の兄)の日には行かなかった。かつて豊見グスクが火攻めで落城したからだ。

近代になってからは、刑務所の農場になったり、採石場になったりして、破壊が進んだらしい。
「豊見城村史」に沖縄戦後に米軍が撮影した城門の写真があるが、石をアーチ型に組んだ門で、本土の城門とは全然違う。しかし、これも今は無い。

昭和30年代から民間企業が公園化し、豊見城城址公園となった。その過程で、さらに破壊されてしまった。(「豊見城村史」第九巻 『文献資料編』)
しかし、平成15年(2003)12月、公園は閉鎖されてしまい、中には入れない。




■豊見城へGO!(登城記)
平成16年(2004)4月6日(火)

今日は豊見グスクだ。
ということでタクシーで行ってみた。しかし、タクシーの運転手から、休園中じゃなかったかな、と気になる一言。
え?そなの?

「豊見城城址公園」と大きく書いた看板の前で下車。
げ、げ、ホントに閉まっている。堅く閉じた門扉には休園中の張り紙が寂しそうにぶら下がっている。
何てこった!
豊見城城址公園正面 淋しく閉じているゲート

仕方ない、どこか入れる所はないだろうか。とウロついてみる。が、草地が続くだけだ。
ただ草原が続くだけ

道ばたに、グスクラ井、と書いた標識が建っている。何のことだろう?
グスクラ井

ほかに無いかな、とウラのほうへ行ってみるが、柵越しに放置された公園が覗けるだけだ。
放置され荒れた草地 駐車場の跡

去年、公園の前を通りがかったときは確かに営業していたので、そのとき無理してでも行っときゃよかった。
行けるときに行かないといけない、と教訓を得たお城だった。がくっ。。




■豊見城戦歴

◆年不詳(15世紀初めころ)、中山王・尚巴志が豊見グスクを攻撃、火攻めにしてこれを落城させた。(「豊見城村史」第九巻 『文献資料編』)


以上



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