むぎしまじょう、やつしろじょう
---- むぎしまじょう ----
別名:八代城 やつしろじょう

平成19年3月18日作成
平成19年3月18日更新

肥後半国の国主・小西行長の支城

「麦島城跡」の標識が建つ天守台跡
麦島城の天守台跡(まわりよりやや盛り上がっている程度だ)

データ
麦島城概要
麦島城へGO!(登城記)
麦島城戦歴


 

■データ

名称 麦島城
むぎしまじょう
別名 八代城
やつしろじょう
築城 天正十六年(1588)小西行長により築城。
破却 元和五年(1619)地震により倒壊。
分類 平城
現存 とくにないが、天守跡に標識あり。下の「アクセス」の写真の道路から石垣や礎石が発掘されたが、今は埋め戻されて見ることができない。
場所 熊本県八代市古城町(旧肥後國八代郡)
アクセス JR熊本駅から国道3号線を鹿児島方面へ南下、あとはひたすらまっすぐだ。
約35キロくらいで八代だ。九州自動車道(高速道路)の八代I.Cを過ぎて、さらに道なりにまっすぐ行くと、いよいよ八代市街に入っていく。
JR八代駅前を通り過ぎ、800m先の「旭中央通り」交差点を左折する。この道が国道3号線なのだが、白鷺橋で前川(球磨川支流)を渡ると球磨川の中州に入る。すぐに「麦島」交差点なので右折しよう。まっすぐな広い道路を1キロ進むと、「迎町」交差点だ。
拙者が行ったときは、ここで行き止まりだったが、道路工事中だったので、さらにまっすぐの道が完成しているかもしれない。ものの本によると、この道路工事現場から麦島城の遺構が出てきている。要するに、すでにこのあたりが麦島城の城域なのだ。
どっちみち駐車場が無いので、この「迎町」交差点付近のコンビニに停めよう。あとは歩きだ。
道路工事中(当時)の道を先へ進み、「迎町」交差点から300mくらい、民家の間の細い道を斜め右へ入ろう。ここが分かりにくいと思うが、下の写真のところだ。
写真右端の細い道を入っていくのだ
100mくらい道なりに歩くと、ほんのすこし高くなっていて、麦島城跡の標識が立っている。





■「八代城」について

八代城といえば、ふつうは松井家の居城の八代城(やつしろじょう)、別名・松江城(まつえじょう)のことをいうだろう。これは球磨川の北岸に築かれた平城で最も新しいお城だ。
しかし、それ以外にも八代城と呼べる城が二つある。

ひとつは中世の山城で、名和氏の居城であった古麓城(ふるふもとじょう)。これは九州道八代インター近くの球磨川右岸に位置し、最も古い。
もう一つは、肥後半国の領主となった小西行長(こにしゆきなが)が築いた麦島城(むぎしまじょう)。これは球磨川の河口に築かれた平城で、古麓城よりは新しい。

これらも「八代城」という名前で歴史小説などに登場することがある。そりゃ、八代に位置するお城だから、そう呼んでも悪くないし、たぶん当時もそう呼ばれていただろう。
しかし、ややこしいので、当ホームページではこれら二城をそれぞれ古麓城、麦島城と呼び、単に八代城と呼ぶ場合は松江城のことを指すことにしよう。




■麦島城概要

八代は古くから争奪の的となった場所だ。南北朝時代に名和(なわ)氏が伯耆国(ほうきのくに=鳥取県)から移り、南朝の重要拠点となったのは、今の八代市街地の東にあった古麓城(ふるふもとじょう)だ。菊池城を追われた征西将軍宮は最後はこの城に籠って抵抗した。戦国時代には、人吉(ひとよし)の相良(さがら)氏との抗争となり、最終的には相良氏がこの城を奪った。しかし、相良氏は薩摩の島津氏に破れ、古麓城は島津氏の拠点となる。やがて、豊臣秀吉の九州征伐で島津氏が降伏すると、肥後半国は小西行長(こにしゆきなが)に与えられた。

小西行長は宇土に入り、宇土古城を廃して新たに宇土城を築き、居城とした。また、重要拠点の八代は、古麓城を廃して、やはり新たに城を築いた。これが麦島城だ。
麦島城は球磨川の河口の北岸に築かれ、西は八代海に面していたという。現在、麦島城跡は球磨川と前川にはさまれた三角州にあるが、前川は加藤氏の時代に作られたもので、それより以前は「徳渕の津」という入江だったそうだ。(学研「よみがえる日本の城12」)
麦島城は、小西家の重臣・小西美作行重(こにしみまさかゆきしげ)に命じて築城され、小西行重はそのまま麦島城代(八代城代)となった。(新人物往来社 「日本城郭体系18」)

麦島城は本丸、二の丸、三の丸からなる本格的な近世城郭だったようだ。石垣は石灰岩の白い石垣で、本丸には三層の天守閣があったという。また水運の地であり、往時には朱印船の貿易船が集まったそうだ。(新人物往来社 「日本城郭体系18」)
なお、「よみがえる日本の城12」では、天守は大天守と小天守が並んで建っていたと想像している。櫓も複数あったようだが、そのうちの一つが最近発掘された。しかし、構造や櫓の数などは不明なままだ。

慶長五年(1600)九月十五日、関ヶ原の戦い。小西行長は懇意にしていた石田三成(いしだみつなり)に与し、西軍として関ヶ原に陣を敷いたが、敗北。その後、捕えられて斬首された。麦島城は開城され、城代・小西行重は薩摩へ逃れた。小西領は没収され、八代郡は加藤清正(かとうきよまさ)に与えられた。麦島城には家臣の吉村橘左衛門・堤権右衛門が派遣され城を受け取ったのち、そのまま守備についた。その後、蟹江与惣兵衛・野尻久左衛門が城代となり、清正死後の慶長十七年(1612)、二代藩主・加藤忠広(かとうただひろ)のときに加藤右馬允正方(かとううまのじょうまさかた)が城代となった。(新人物往来社 「日本城郭体系18」)

元和元年(1615)閏六月、いわゆる一国一城令が出された。肥後藩では、南関城・内牧城・佐敷城が廃城となったが、八代城(麦島城)はとくに存続が認められた。幕府にとって八代城(麦島城)は薩摩に対する押さえとして期待されたためといわれている。

せっかく存城となったものの、元和五年(1619)三月十七日におきた大地震のため麦島城は倒壊し、そのまま廃城となった。加藤忠広は幕府の許可を得て、加藤右馬允正方に命じ前川の北に新たに城を築いた。これが、今に残る八代城(松江城)である。(学研「江戸三百藩 城と陣屋総覧西国編」)

麦島城の石垣などは、ことごとく八代城築城に使われたという。
今では、天守跡を示す標識が建っているくらいで、地元でもその存在を知らない人が多い。忘れられた城だ。







三階櫓 九間櫓 唐人櫓 大天守 小天守 月見櫓 宝形櫓 磨櫓 ここが駐車場になっている 旧前川堤防沿いの発掘された石垣

■麦島城へGO!(登城記)
平成17年(2005)5月4日(水)

今日はすこぶる天気が良い。よし麦島城だ。
八代インターを降り、八代市街へ向かい、白鷺橋を渡って球磨川の三角州へ上陸だ。

道路地図で「麦島城跡」と書いてあるところへ行こうとしたが、なんと工事中、というか道路建設中で近寄れないぞ。


仕方ないので、近所をぐるぐる回って近隣の方に麦島城について聞いてみた。他にも遺構があるかもしれない、と思って期待したのだが、遺構どころか麦島城を知らない方がほとんどだ。
そうか、忘れ去られたお城なんだな。
ではコンビニにでも車を停めて歩こうか、と思ったが、コンビニも見当たらないので、工事現場の入口に停めることにした。祝日だから誰も来ないだろう。

気を取り直して、工事中の道路を歩いてみる。この道路建設現場から麦島城の遺構が見つかったそうだが、すでに埋め戻されていて何にも無い。
それにしても、どこから曲がればいいんだろう、、、
近づいたら看板でも出ているかと思ったが、何も無い。やはり近隣の方に尋ね、道を教えてもらった。(このページの冒頭、「アクセス」の写真のわき道)

こんな狭い道を入るのか、と思いながら民家の間を歩いていく。


道なりに進むと、すぐに城跡の標識が見つかった。
え?これが天守台跡?周りの民家より心持ち盛り上がっている程度の空き地に「麦島城跡」の標識が建っている。


ほかに何かゆかりあるものは無いか、とウロついてみたが特に何も見つからなかった。
遠い昔のお城の記憶は、すでに人々から失われているような、そんなお城だった。





■麦島城戦歴

◆ 天正二十年(1592)六月、梅北の乱。六月十五日の朝、島津家家臣の梅北国兼(うめきたくにかね)・田尻但馬(たじりたじま)らが一揆勢をひきい肥後・佐敷城を占拠。一揆勢はさらに麦島城を攻めるため、翌日、海路で八代へ向かった。しかし、首謀者の梅北国兼は十七日、陣中見舞いの酒肴を受け取る席で謀殺された。その後、麦島城攻めも失敗に終わり、一揆勢は敗北した。(山川出版社 「熊本県の歴史」)

◆ 慶長五年(1600)、関ヶ原の合戦。小西行長は、西軍としてこの合戦に参加、敗れた。戦後、捕えられて石田三成、安国寺恵瓊(あんこくじえけい)とともに京・六条河原で斬られた。麦島城は開城され、城代・小西行重は薩摩に逃れた。(新人物往来社 「日本城郭体系18」)

◆ 元和五年(1619)三月十七日、地震により麦島城倒壊。再建されることはなかった。(熊日出版 「乱世を駆けた武士たち 中世編」)



以上



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