なきじんぐすく
---- なきじんぐすく ----
別名:北山城 ほくざんぐすく

平成24年1月4日作成
平成24年1月4日更新

北山王および北山監守の居城

写真中央右、石垣が崩れているところが志慶真門の跡
今帰仁城主郭から志慶真門郭を見下ろす

データ
今帰仁城概要
今帰仁城へGO!(登城記)
今帰仁城戦歴


 

■データ

名称 今帰仁城
なきじんぐすく
別名 北山城
ほくざんぐすく
築城 13世紀末ころから築城されたらしい(今帰仁村教育委員会 「なきじん研究3」)。
破却 1665年北山監守が首里に引き上げ廃城となった(新人物往来社 日本城郭体系1 『今帰仁グスク』)。
分類 山城
現存 石積み
場所 沖縄県国頭郡今帰仁村字今泊(旧琉球国)
アクセス 今帰仁城は、大まかに言うと那覇空港から高速に乗って北部を目指し、北部まで行けば標識が出ているので何とかなる。
ということで、那覇空港をスタートし、国道332号線を右折して那覇市街方面を目指す。約3Km先で国道332号線は国道331号線に変わるが、ここで直進すれば「名護・那覇市内」、右手前にカーブすれば「糸満・豊見城」へ行くわけだが、ここはまっすぐだ。さらに500m先の「山下」交差点で右折しよう。まっすぐでも行けるはずなのだが、タクシーに乗るとなぜか右を選択するので、ひょっとするとまっすぐは渋滞が多いのだろうか。
さて右折し、約600m先の「山下(南)」交差点はモノレールの高架があるので分かりやすい。ここを左折し、モノレールの下を走ろう。そのまま那覇大橋を渡り、200mほど行くと右車線は高架になってしまうので左車線の下の道を行こう。100mくらいで「古波蔵」交差点なので右折だ。ちゃんと「沖縄自動車道 1那覇→」の緑の標識も出ているので間違わないだろう。しかし今日は「那覇」インターではなく、「南風原北」インターから高速に入ることにしよう。しばらくまっすぐ行き、約6Km先の「与那覇」交差点で左折する。「南風原北 名護方面」を目指すのだ。そのまま右車線を維持し、那覇空港道路「南風原自動車道」に入ろう。

さあ、ここからは沖縄自動車道をひたすら走り、約60Km先の終点まで快適なドライブだ。間違うとすれば、終点手前の許田(きょだ)で伊武部・許田方面へ降りてしまうことくらいだと思う。もちろん降りずに名護・本部の終点まで行くのだ。終点まで行くと、高速道路は自然と国道58号線に合流する。ここから今帰仁城まで、あと25Kmくらいだ。

さて、国道58号線に合流し、約5.5Km先の「城1丁目」交差点で右折だ。何とも気になる交差点名だが、これは近くに名護城があるからだろう。目印は名護市役所の500m手前だ。
右折して約3Km進むと、「伊差川」交差点なのでここを左折、「呉我」を目指すのだ。ここから3Km行くと国道505号線に突き当たる。「呉我」交差点だ。ここを左折しよう。ここからはひたすらまっすぐ行こう。約8Km先の今帰仁村役場を目指すと良い。途中、Y字路があるが右へ行くと県道72号線なので、ここは左へ進み国道505号線をキープだ。今帰仁村役場の前には、「↑今帰仁城」の標識もあって安心できるぞ。さらに5Km行くと、頭上に「←今帰仁城跡、今帰仁村歴史文化センター」の標識が出ているので左折しよう。ここには交差点名もないし信号もない。標識だけが頼りだが、大きな標識なので見落とすことはないだろう。左折すると、「今帰仁城跡1Km」の標識もあるので確認しよう。坂道を上って行くと約1Km先に、「今帰仁城跡」の標識が頭上に出ており、右手に今帰仁村歴史文化センターがあるので、ここに駐車するのだ。
たいへんお疲れさまでした。長い行程だったが、沖縄本島の大きさが実感できるドライブだと思うぞ。文化センターに券売所があるので入場券を買い、さあ、お城探訪だ!





■「城」の呼び方について

沖縄では、城と書いてグスクと呼ぶ。
つまり、城(グスク)というのは、沖縄地方のお城の呼称だ。そのつくりは本土のお城とは随分と違っていて、曲がりくねった石垣が印象的だ。
となると、沖縄のお城はどう呼べばいいのだろうか?

例えば、地名としての豊見城は現地ではトミグスクと読むが、では豊見城にあるお城は、
  @豊見城 と書いて、トミグスクと呼ぶ
  A豊見城城 と書いて、トミグスクジョウと呼ぶ
  B豊見城城 と書いて、トミグスクグスクと呼ぶ
のどれがふさわしいのだろうか。

ガイドブックなどは結構、Aのように「●●グスクジョウ」と「城」の字を重ねて書いてあるのが多い。たしかに最後に「ジョウ」がつくと馴染みやすい、というか分かり易い。
なかにはBのように、「●●グスクグスク」と丁寧に書いてあるものもあるが、これは行き過ぎだろう。
しかし、当時の沖縄、つまり琉球の人たちは、●●ジョウ、とは呼ばなかっただろう。だいいち、●●ジョウと言えば沖縄では●●門のことだ。そこで、このホームページでは「城」の字を重ねず、●●グスクと呼ぶことにしよう。
といっても、あまりこだわることなく、例えば首里城は通例にしたがい「シュリジョウ」と呼ぼう。



■今帰仁城概要

今帰仁(なきじん)グスクは沖縄北部の中心だった城だ。築城は、出土遺物から13世紀後半とされるが、築城者は分からない(今帰仁村教育委員会 「なきじん研究3」)。 というよりも、この頃の沖縄の歴史自体がよく分かっていない。
今帰仁城は規模が大きく、その作業量を考えると相当の権力の集中があったはずであり、山原各地の按司(あじ)は北山(今帰仁)に集約されていたという説もある(今帰仁村教育委員会 「なきじん研究3」)。規模が大きいといっても、現存するような大きな石垣がはじめからあった訳ではないはずだ。「按司(あじ)」というのは「世の主(よのぬし)」とも呼ばれる地方の有力者ないし支配者のことだ。本土でいえば国人領主といったところだろうか。
なお、伝説では、今帰仁城はアマミキョ神の後裔である「天孫氏(てんそんし)」が造った、と云われているそうだが、これは、築城者の分からない各地の古いグスクはほとんどが「天孫氏」の築城ということになっているらしい。もうひとつ、沖縄には源為朝(みなもとのためとも)上陸伝説があり、為朝が現地でもうけた子が大舜(たいしゅん)と名付けられ、のちに今帰仁城主になった、という伝説もあるそうだ(与並岳生氏 「新琉球王統史2」)

さて、今帰仁についてはっきりとしてくるのは、中国の「明実録」に北山王(ほくざんおう)の怕尼芝(はにし)・a(みん)・攀安知(はんあんち)3人の王が記録されるころだ。年代としては、怕尼芝がはじめて明国に進貢したのが明の洪武16年(1383)である(与並岳生氏 「新琉球王統史2」)ので、本土では南北朝時代のおわりだ。先述のように、今帰仁城からは13世紀後半の遺物が出土しているので、怕尼芝よりも以前に中国と交易していたのは間違いないと思われるが、その名が伝わっていないのだ。

この頃の沖縄は、南山(なんざん)・中山(ちゅうざん)・北山(ほくざん)の3勢力に分かれ、争っており、「三山時代(さんざんじだい)」あるいは「三山分立時代」という。3人の按司(世の主)は、それぞれ明へ朝貢しその冊封(さくほう、さっぽう)を受け、つまり3つの独立した王国として認められ、それぞれ「王」を名乗った。そのうち北山王の居城が今帰仁城だ。
三山の王は、それぞれ明国に進貢したわけであるが、その回数は南山29回、中山50回以上と比べ北山は18回とかなり少なく、これは北山がもっとも農業生産性が低いためであろうと考えられている(今帰仁村教育委員会 「なきじん研究3」)。なお、三山から明への貢ぎ物は主に馬と硫黄であった(与並岳生氏 「新琉球王統史2」)。 硫黄のほうは、徳之島の西にその名もズバリ硫黄鳥島(いおうとりじま=硫黄取り島)があるのでともかく、馬というのは今から考えると不思議な気がする。
明の洪武16年(1383)、中山王・察度(さっと)は明皇帝から属国の王に授けられる鍍金銀印(ときんぎんいん)を受けた。このときの察度(さっと)王に対する詔に、「琉球から帰ってきた使者が言うには、琉球の三王は互いに争い、農を廃し民を傷つけているという。朕ははなはだ憫う(うれう)ものである。王は戦いをやめるように」とあった。のち、明皇帝は南山王と北山王にも詔を発し、「朕は三王が相争っていることを憂えている。(南山・北山の)二王はこれを知れ。二王、よく朕が意を体して、争いを止めよ」と強い口調で責めている。そこで三王は争いを止め、使者を皇帝に派遣して、皇帝の心遣いに感謝の意を表しているが、北山王・怕尼芝(はにし)はこのときに初めて進貢するのである(与並岳生氏 「新琉球王統史2」)。 北山・怕尼芝(はにし)の使者は模結習で、明国に宝物を献上した見返りに布一襲を賜ったという(新人物往来社 日本城郭体系1『今帰仁グスク』)
その2年後洪武18年(1385)、明国皇帝は怕尼芝(はにし)に対し鍍金銀印(ときんぎんいん)を授けた。怕尼芝(はにし)が正式に琉球国山北王となるのはこのときからである(与並岳生氏 「新琉球王統史2」)。なお、琉球では北山(ほくざん)と呼ぶが、明国では山北と呼んでいて、漢字がひっくり返る。

洪武16年(1383)以来、怕尼芝(はにし)は6回、その子・a(みん)は1回、攀安知(はんあんち)は11回、明に進貢している(今帰仁村教育委員会 「なきじん研究3」)。 a王の進貢が少ないのは、在位約5年という短命政権だったためだ。aを継いだのは、その子の攀安知である(与並岳生氏 「新琉球王統史2」)

ところで、時代を遡って、はっきりとした時期は不明であるものの「北山騒動」という伝承があるというので記しておこう。今帰仁の世の主(よのぬし=按司)に年老いてから世継ぎが生まれ、千代松(ちよまつ)と名付けられた。ところが、重臣の本部大主(もとぶうふぬし)が謀叛をおこし、世の主は殺された。世の主の妻と側室は千代松を連れて逃げたが、妻は力尽き、あとを側室に託して志慶真川(しげまがわ)に身を投げた。側室は志慶真村出身の乙樽(おとだる)といい、千代松を育てた。18年後、千代松は成長し丘春(おかはる)と名を改め、のち旧臣を集めて本部大主を討ち今帰仁城を奪還した、という伝承である。その後、どのくらいの時間が経ったか分からないが、今帰仁按司は羽地(はねじ)按司に攻め滅ぼされる。このときの今帰仁按司が丘春だったかどうかは不明だ。この羽地按司は、一説に兼次(かねし)とも言われるが、のち明国に進貢する。明国では、その発音から「怕尼芝(はにし)」と表したという。つまり第一代北山王怕尼芝だ(与並岳生氏 「新琉球王統史2」)

北山王・怕尼芝(はにし)が死んだのははっきりしないが、洪武28年(1395)には「山北王a(みん)」が進貢しているので、それより前だと考えられている。a(みん)は怕尼芝(はにし)の子であるとされる。ところが、その事蹟はきわめて少なく、その翌年洪武29年(1396)一月には、北山王・攀安知(はんあんち)が進貢しており、a(みん)は既に亡くなっている。「中山世譜」によるとa(みん)の在位は五年という(与並岳生氏 「新琉球王統史2」)

a(みん)の跡を継いだのは子の攀安知(はんあんち)だ。「中山世譜」、「球陽」には攀安知(はんあんち)は、自ずから武勇をたのみ淫虐無道なり、とあり、とんでもない人物だったようだ。もっともこれは、北山王朝を滅ぼした側の記述なので、いつものように相当程度あやしい。といっても、他に人物像を窺えるようなものもないので、今はこのとおりだとして、話を進めよう。攀安知(はんあんち)の将・本部平原(もとぶてーはら)も勇力きわめて強く、兵士も剛勇であった。攀安知は中山(ちゅうざん)を攻略しようと日夜兵馬の訓練をしていた。ところが、攀安知は「淫虐無道」であるので、羽地按司(はねじあじ)・国頭按司(くにがみあじ)・名護按司(なごあじ)といった北山の按司は中山へ投降した。このころの中山王は思紹王(ししょうおう)だった。思紹王は、子の尚巴志(しょうはし)に北山討伐を命じた。永楽14年(1416)あるいは永楽20年(1422)、尚巴志は浦添按司(うらそえあじ)・越来按司(ごえくあじ)・読谷山按司(よみたんざんあじ)の兵をも加えて今帰仁城へ攻め寄せた(与並岳生氏 「新琉球王統史2」)
攻城軍は、名護按司を案内として越来按司・読谷山按司を搦手の大将として八百余人、大手には国頭按司・羽地按司を大将として二千七百余人で攻める。ところが今帰仁城は堅城を誇り、三日間攻め続けても撃退されてしまった。そこで尚巴志は計略を用いることとし、腹心の本部平原(もとぶてーはら)は勇力に優れているが策力に弱いので、夜陰にまぎれて密使を送り、賄賂を贈って説得したところ、本部平原(もとぶてーはら)はこれに応じた。翌日、本部平原(もとぶてーはら)は攀安知(はんあんち)に、「久しく城門を出て戦っていないので、敵はきっと我々を臆病者と思っているはずだ、交互に城を出て戦えば敵は必ず負ける」と進言した。攀安知(はんあんち)は、これを受け入れ、まず自ら城門を開いて討って出た。尚巴志は、一隊を城のもっとも険阻な方角から城に侵入させるとともに、本隊は攀安知の攻撃を受けて敗走した。しかし攀安知がふと振り返ると城は火に包まれていたので、急ぎ城へ戻ったところ本部平原の裏切りを知った。尚巴志軍は城へなだれ込んできており、攀安知(はんあんち)は城中の霊石を切り、自害した(新人物往来社 日本城郭体系1『今帰仁グスク』)

こうして北山王朝は滅びたわけだが、最後の北山王・攀安知(はんあんち)は剛勇ではあるが頭の悪い、徳のない人物といったところだ。やや腑に落ちないのは、城外へ討って出た攀安知が敵を引き入れた本部平原の謀叛を知り、もはやこれまで、と霊石を切りつけて自害したということであるが、霊石というからには祭壇に祀ってあったのであろうし、祭壇なら城内のもっとも重要な場所にあったのだろうから、そんなところまで城外から戻って来られたのだろうか。まぁ伝承であるから、あまり細かく詮索しても仕方はないが、「中山世鑑」にはやや違う話になっていて、尚巴志軍が夜陰にまぎれて城のもっとも険阻な断崖から一部隊を忍び込ませて城に火をかけたところは同じだが、攀安知(はんあんち)が本部平原(もとぶてーはら)に騙されて城を出て戦う話はない。こっちのほうが、ありそうな気はする。

なお、尚巴志軍の密使なり一小隊が密かに忍び込んだ場所は、今帰仁城のもっとも険阻な場所とされているが、北東側とも西南側ともあってよく分からない。ざっと、志慶真門(しげまじょう)のことである、と断じているのもある。地形から見て、大雑把にいってそっちのほう、というところか。

ところで、この尚巴志の北山討伐の時期については、定説はない。「中山世譜(ちゅうざんせいふ)」と「球陽(きゅうよう)」は思紹王11年(永楽14年=1416)、「中山世鑑(ちゅうざんせいかん)」は尚巴志即位元年(永楽20年=1422)としている(与並岳生氏 「新琉球王統史2」)。 
これについて、「なきじん研究3」では、1650年に書かれた「中山世鑑」は、地元の資料や伝承をもとに永禄20年(1422)としたのだろうと推測し、一方、「中山世鑑」を漢訳した「蔡鐸本中山世譜」は永禄20年(1422)説を採っているが、それに史料を加味して1725年に重修された「蔡温本中山世譜」が永禄14年(1416)としているのは、明国の史料「明実録」に記される攀安知(はんあんち)の最後の朝貢が永楽13年(1415)であるところから、その翌年永楽14年(1416)に滅亡したものとみなしたのであろうとし、1743年の「球陽」もそれを受け継いでいると考察している(今帰仁村教育委員会 「なきじん研究3」)
これは、お茶の水女子大の和田久徳氏の永楽20年(1422)説を補強するもので、同氏は、北山王・攀安知(はんあんち)は永楽3年(1405)から永楽13年(1415)まで約10年間進貢していないのだから、永楽13年(1415)以降朝貢の記録がないからといってその直後に北山が滅びたと考える必要性は少なく、単に暫く進貢しなかったから記録されなかっただけであり、それよりも北山王を永楽20年3月に破ってその地を併合したから、新領地を支配する目的で、討伐直後、同じ年のうちに次男・尚忠(しょうちゅう)を今帰仁城に駐在させて北山を監守させたと考えるほうが妥当とし、尚忠(しょうちゅう)が永楽20年(1422)年に北山監守となっていることから北山王攀安知滅亡は永楽20年(1422)が妥当としている(新人物往来社 日本城郭体系1『今帰仁グスク』)
それに対し与並岳生氏は、「中山世鑑」にはそもそも思紹王の紀事がすっぽりと抜けており、王位継承は武寧王(ぶねいおう=察度王の子)から第一尚氏・尚巴志王へ飛んでいて、それは永楽19年(1421)に尚巴志が武寧王を滅ぼしたと誤っているためであると指摘し(与並岳生氏 「新琉球王統史2」 『北山』)、しかしながら尚巴志が武寧王を滅ぼしたのは永楽4年(1406)であり、思紹が武寧の世子として「父」武寧の死を明国に告げ冊封(さくふう、さっぽう)を請い、明国が思紹を冊封したのが永楽5年(1407)、そして思紹王が死んだのが永楽19年(1421)、跡を継いだのは子の尚巴志であるが琉球では王位に登った次の年が即位年なので永楽20年(1422)に尚巴志即位、同年に尚巴志は次男・尚忠(しょうちゅう)を北山監守に任じ今帰仁城へ派遣、即位して3年目の永楽22年(1424)に明国に思紹王の訃を告げて、翌永楽23年(1425)に冊封使が琉球を訪れ正式に琉球国中山王に封ぜられた(与並岳生氏 「新琉球王統史3」 『思紹王・尚巴志王』)、と流れを説明し、そうなると永楽20年(1422)にはすでに思紹王は亡くなっており、羽地按司(はねぢあじ)らの要請を受けて北山王・攀安知(はんあんち)を討伐することはできないので、北山討伐は永楽14年(1416)説を採っている(与並岳生氏 「新琉球王統史2」 『北山』)。 なお、尚巴志が父王の死を3年も経ってから明国に告げている理由はよく分からない。何もすぐ報告することにはなっていないようだが、武寧王から思紹王への請封が素早かったことと明らかに異なっている。思紹王即位が易姓革命だったのに比べ、尚巴志は実子であるための余裕かもしれないし、明国の永楽帝がその20年(1422)にモンゴルへ親征したので決定権者がいないから遅らせたのかもしれない(与並岳生氏 「新琉球王統史3」 『思紹王・尚巴志王』)。 明の永楽帝は北へ去った元朝を討つためモンゴル高原へ5回も遠征し(宮脇淳子氏 「モンゴルの歴史」)、永楽22年(1424)その帰途に没した(与並岳生氏 「新琉球王統史3」 『思紹王・尚巴志王』)

つまるところ、中山の北山討伐の年は決め手がなくはっきりしない、というところなので、当ホームページでは両論を紹介することに留めよう。

ところで、北山王・攀安知(はんあんち)が滅んだのちの今帰仁城はどうなったのか。先述のように、「北山監守」という機関を置いたのである。この北山監守の具体的な役割、制度については、「中山世譜」などに何も記されておらず、はっきりしない。設置の目的は、一般に、北山が首里から遠く、地形が険しく、そこに住む人が驍健で再び反乱を起こす恐れがあるため、とされている。(今帰仁村教育委員会 「なきじん研究3」) いわば、北部方面軍司令官あるいは北部守護職といったところだろう。
先述のように、北山王滅亡が永楽20年(1422)であれば、尚巴志はその直後に次男・尚忠を北山監守として派遣したことになる。一方の、永楽14年(1416)北山滅亡説にたつと、尚忠派遣まで約6年あるが、この間について与並岳生氏は、護佐丸(ごさまる)がその役割に任ぜられて今帰仁城にあったとし、これはさまざまな伝承から窺えることだとしている。護佐丸は、攀安知攻撃のときの搦手の大将、読谷山按司(よみたんざんあじ)であった。ただ、護佐丸が北山監守と呼ばれたかどうかは分からない、という(与並岳生氏 「新琉球王統史2」 『北山』)。 これとは別に折衷案のような説で、永楽20年(1422)北山王・攀安知(はんあんち)を滅ぼした尚巴志は、北方鎮撫のため護佐丸を今帰仁城に置いたが、その年のうちに第二子尚忠を北山監守に任じた、というのもある(新人物往来社 日本城郭体系1『今帰仁グスク』)

護佐丸(ごさまる)は、琉球の楠公のような存在であるが、そのエピソードは別途中城(なかぐすく)の項で述べることにする。治世については、徳行篤く仁政を施していたので百姓は生業を安んじ地域は治まっていたといわれる(新人物往来社 日本城郭体系1『山田グスク』)。この北山討伐の頃、護佐丸は読谷山按司で、山田城(やまだぐすく)を居城としていた。のちには座喜味城(ざきみぐすく)中城(なかぐすく)を築城、修築しており築城の名人といわれたそうだ。また護佐丸は、怕尼芝(はにし)按司に滅ぼされた「今帰仁世の主」の系統という伝承がある。ということは、志慶真乙樽(しげまおとだる)に抱かれて今帰仁城を脱出した若按司・千代松の末裔ということになるのかもしれない。そうなると、護佐丸が尚巴志に従い北山王・攀安知(はんあんち)を討ったのは父祖のかたき討ちということになる(与並岳生氏 「新琉球王統史2」 『北山』)。怕尼芝(はにし)に滅ぼされた先今帰仁世の主(さきなきじんよのぬし)の裔に伊波按司(いはあじ)があり、その次男が護佐丸の父だったという(与並岳生氏 「新琉球王統史3」 『思紹王・尚巴志王』)
その真偽は分からないが、護佐丸が北山監守の地位にあったとすれば、永楽14年(1416)北山王滅亡から永楽20年(1422)の間の約6年間か、あるいは永楽20年(1422)北山王滅亡後数ヶ月間ということになる。

永楽20年(1422)尚忠(しょうちゅう)が北山監守として今帰仁城に着任したのは間違いないようだ。今帰仁王子と称したらしい(今帰仁村教育委員会 「なきじん研究3」)。 永楽19年(1421)六十七歳で思紹(ししょう)王死去、子の尚巴志(しょうはし)王が跡を継ぐ。琉球ではその翌年が即位元年なので、永楽20年(1422)尚巴志が即位、同じ年に尚巴志は次男の尚忠(しょうちゅう)を北山監守として今帰仁城に置いた。護佐丸は居城の山田城(やまだぐすく)に戻ったと思われるが、この頃、尚巴志も居城を浦添城(うらそえぐすく)から首里城へ移したようだ。ということは、尚忠の北山監守派遣は、単に北部を治めるためというよりは、中山王朝の琉球支配の拠点再配置の一環と言えそうだ。ただ、このときにはまだ南山王は健在である。(与並岳生氏 「新琉球王統史3」 『思紹王・尚巴志王』)

山田城に戻った護佐丸は、のち新たに座喜味城(ざきみぐすく)を築いて移る。宣徳四年(1429)尚巴志は、南山王・他魯毎(たろまい)を滅ぼして琉球を統一した。もともと琉球は対外貿易に注力しており、尚巴志のころはシャム、パレンバン、ジャワとの交流も行っている。日本からは、日本の永享十一年(1439=中国の正統4年)将軍足利義教(あしかがよしのり)から「りうきう国のよのぬし」、すなわち尚巴志に対して進上品のお礼の書簡が届いた。しかし、この年の四月二十日、尚巴志は死去。足利義教の書簡を見たかどうか、分からない。(与並岳生氏 「新琉球王統史3」 『思紹王・尚巴志王』)

尚巴志の跡を継いだのは、次男で北山監守の尚忠(しょうちゅう)である。なぜ長男が継がなかったかは不明だ(与並岳生氏 「新琉球王統史3」 『思紹王・尚巴志王』)
では、尚忠が王として去ったあとの今帰仁城はどうなったのか?「球陽」によれば、尚忠の子弟を北山監守として封ぜしめたという。ただし、誰が北山監守になったか、どこにも記録されておらず名前は分からない。島袋源一郎氏は、尚忠の弟である具志頭王子(ぐしちゃんおうじ)が北山監守を継ぎ、1469年の尚徳王の変のとき今帰仁城から引き揚げた、という「野史」を紹介している(今帰仁村教育委員会 「なきじん研究3」) 。その真偽のほどは分からないが、尚忠あるいは護佐丸に始まった北山監守は、第一尚氏が滅びるまで続いていたと推測されているようだ。

時代はくだって、成化5年(1469)四月二十二日、29歳の尚徳王は突然死去。暴君だったともいわれるが、正史の常で前王朝の最後の君主は得てしてそう言われるので、どの程度事実か分からない。尚徳王の逸話として、海外交易に力を入れていた尚徳王は、日本へも使者を尚徳王六年(1466=文正元年)に派遣している。使者は京へ上り、七月二十八日将軍足利義政(あしかがよしまさ)に謁見して、退出のときに門前で「鉄砲」二発を打ち鳴らして人々の度肝を抜いたという。礼砲のつもりだったらしい(与並岳生氏 「新琉球王統史4」 『尚徳王』)。 日本に「鉄砲が伝わる」のは天文十二年(1543)ということになっていて学校でも暗記させられるが、何もそのときまで日本に鉄砲が全く上陸したことがない、などと固く考える必要はなく、このような事例や、あるいは記録に残らない民間の交易などでじわじわと入ってきていたと考えて不思議ではない。

さて、尚徳王が亡くなると、一説には久高島(くだかじま)参詣の間にともいうが、歴代の重臣・金丸(かなまる)がクーデターを起こして王位に就き、尚円(しょうえん)と名乗った(与並岳生氏 「新琉球王統史4」 『尚徳王』)。 第二尚王統の始まりである。
尚円王(しょうえんおう)は、尚巴志(しょうはし)の制度に倣い、北山に監守を置いたといわれる。北山監守には、大臣を輪番で派遣したという(今帰仁村教育委員会 「なきじん研究3」)。 今帰仁城が引き続き北山監守の居城として使われたと思われる。

成化12年(1476)七月二十八日、尚円王死去。在位は7年と短かった。易姓革命により即位して7年間では、未だ第二尚氏の治世は充分な体制とは言えなかったのではなかろうか。尚円の跡は、長男の真加戸樽金(まかとたるがね)が12歳であったため、尚円の弟・尚宣威(しょうせんい)が即位したものの、神に忌避されたということですぐに退位、結局、真加戸樽金(まかとたるがね)が即位し尚真(しょうしん)と名乗った。尚真王は、五百年の琉球王統史のなかで最長の50年間在位し、第二尚氏王統の基礎を固めることになる(与並岳生氏 「新琉球王統史5」 『尚円王・尚真王』)

この尚真王のとき、それまで大臣が輪番で派遣されていた北山監守に、自身の三男・尚韶威(しょうしょうい)を送り込んだ。年代ははっきりしないが、1490年頃のことらしい。その理由としては、北山はまだ反乱を起こす可能性があり、また首里から遠いということであるとされ、従来と変わらない。尚韶威(しょうしょうい)は今帰仁王子と称され、今帰仁間切総地頭職に任ぜられた。これ以降、北山監守は尚韶威(しょうしょうい)の子孫が継いでいくことになる。(今帰仁村教育委員会 「なきじん研究3」)。 尚真王の事績として、各地に割拠していた按司(あじ)首里城下に住まわせ、その代わりに代官を首里から各地へ派遣し、地方権力の力を削ぎ王権を強化しているが(仲村清司氏 「本音で語る沖縄史」)、今帰仁は例外とされたようだ。
やはり治めにくい地方だったのか、あるいは重要地域だったのか、王の子を派遣して治めさせていて、なんとなく北山監守は室町幕府における鎌倉公方のようだ。

尚韶威(しょうしょうい)の跡は、子の介紹が継いだ。介紹以後は尚姓ではなく向姓なので、つまり向介紹が第二尚氏系統の北山監守第二世ということになる。もちろん、今帰仁間切総地頭職である。向介紹以降、和賢、克順、克祉と続き、克祉のときに薩摩が琉球へ侵攻して今帰仁城は焼き討ちされる。本家の琉球王は尚寧(しょうねい)のときだ(今帰仁村教育委員会 「なきじん研究3」)。 

琉球と薩摩との交流は、その位置関係から相当古くより続いていたことが容易に想像できる。やや遠回りになるが、以下与並岳生氏の「新琉球王統史」を中心に琉球と薩摩との関わりを見てみよう。尚真王(しょうしんおう)五年(1481=日本の文明十三年)、琉球は初めて薩摩に綾船(あやぶね)を派遣した(与並岳生氏 「新琉球王統史5」 『尚円王・尚真王』)。この「初めて」というのが琉球王朝として初めてなのか、第二尚王統にとって初めてなのか、それとも「綾船」という色彩鮮やかな貿易船を送ったのは初めてという意味なのかよく分からないが、それ以前にも記録に残っていない交流があったはずであり、地理的に考えてそれはいつの頃から始まったか分からないほど古いと言うべきであろう。
尚真王の三十二年(1508=日本の永正五年)には、島津忠治(しまづただはる)が密貿易の取締りを要請する書を尚真王に送っている。その後、尚真王四十年(1516=日本の永正十三年)備中国蓮島(はすじま)の三宅和泉守国秀(みやけいずみのかみくにひで)が何を思ったか琉球を討伐するため兵船十二隻を率いて薩摩の坊津(ぼうのつ)に終結した。薩摩守護職島津忠隆(しまづただたか)は幕府に許可を得て六月一日坊津の三宅国秀を攻め殺した。この御礼のためか、同年(1516=日本の永正十三年)十二月二十日、琉球から薩摩に使者が派遣されている。島津忠隆が三宅国秀を討った理由は、琉球貿易の権益を守るためと思われるが、とにかく琉球は救われたことになるだろう。その後も、尚真王の四十二年(1518=日本の永正十五年)に島津忠隆が尚真王に書を送ったり、尚真王四十五年(1521=日本の大永元年)、琉球の三司官(さんしかん=琉球の重臣で執政責任者)から種子島忠時に書を送ったりと通交がある。尚真王四十九年(1525=日本の大永五年)には島津忠良(しまづただよし=日新公じっしんこう)が尚真王に武具を贈り、翌尚真王五十年(1526=日本の大永六年)尚真王から島津忠良に絹糸を贈っている。この年、在位五十年を迎えた尚真王は没した。六十二歳。(与並岳生氏 「新琉球王統史5」 『尚円王・尚真王』)
王位は五男の尚清王(しょうせいおう)が継いだが、その八年(1534=日本の天文三年)島津から琉球に対して、三宅国秀の残党が再度琉球征討を企てていると通告があったという(与並岳生氏 「新琉球王統史6」 『宮古・八重山/尚清王・尚元王・尚永王』)。 結果的には、三宅勢の再征はなかったようだ。しかし何ゆえ、備中の三宅氏が琉球討伐に固執するのか分からないが、縁もゆかりもない行ったこともない地に軍勢を送ることは考えにくいので、琉球と日本との交易というのは、意外と広範囲で行われていたのだろう。 一説に三宅国秀は「海賊商人」ともいう(仲村清司氏 「本音で語る沖縄史」)
尚清王から次男の尚元王(しょうげんおう)へ王位が継承され、尚元王四年(1559=日本の永禄二年)四月、尚元王から薩摩に対し、旧交を継ぎ友誼を深めたいと使者を送り、島津貴久(しまづたかひさ)はこれを「幸甚」であるとする書状を送り、密なる隣好を告げた。尚元王十二年(1567=日本の永禄十年)夏、宮古島から琉球への朝貢船が薩摩国加世田に漂着すると、島津氏は船を出して琉球へ送り届けた。琉球は、尚元王十四年(1569=日本の永禄十二年)御礼の使者と金品を送り、島津貴久も翌尚元王十五年(1570=日本の元亀元年)使者を送って隣交と旧例による貿易を求めた。この島津氏から琉球への使者のとき、国老・川上入道から琉球の三司官(さんしかん=琉球の行政官のトップ)に対して、近頃琉球船は印文(勘合印)を帯びていないので調べるよう申し送っている。すでに六十二年前の尚真王三十二年(1508=日本の永正五年)にも島津忠治(しまづただはる)が密貿易取締りを要請しており、この手の問題はいつの時代にも無くなることはないのだろう。尚元王十七年(1572=日本の元亀三年)には島津氏は琉球の渡海船が正印を帯びていない場合の財没収を依頼している。しかし琉球王朝は密貿易取締りに熱心でなかったのか、それとも捕まえきれずにいたのか、尚永王二年(1574=日本の天正二年)島津義久(しまづよしひさ)の襲封を賀す琉球からの使者・天界寺南叔(なんしゅく)らがやって来ると、薩摩は彼らに対して、未だ答えがないと責めている。これを受けて琉球使者は黄金三十両を追加して贈ろうとしたが、義久はこれをとどめて、猿楽や犬追物(いぬおうもの)を見せ、宴を催すなど歓待したという。その後も、尚永王十四年(1586=日本の天正十四年)には薩摩の南浦文之(なんぽぶんし)の弟子・泊如竹(とまりじょちく)が琉球を訪れ、尚永王がこれに師事するなど、琉球と薩摩の関係は良好だった(与並岳生氏 「新琉球王統史6」 『宮古・八重山/尚清王・尚元王・尚永王』)

琉球にとって風向きが変わってきたのは豊臣秀吉のころのようだ。出雲・尼子氏の旧臣で、天正九年(1581)秀吉の鳥取城攻めで功績をあげ、因幡鹿野城(しかのじょう)一万三千五百石を与えられた亀井茲矩(かめいこれのり)という武将がいる(新人物往来社 「戦国人名事典」)。のちに子の亀井政矩(かめいまさのり)が石見国津和野藩四万三千石に移され、幕末まで続く亀井家だ(中嶋繁雄氏 「大名の日本地図」)。 その亀井茲矩は、天正十年(1582)秀吉の中国大返しの際、鹿野城に残留して毛利を牽制した。これを評価したためか、あるいは以前から茲矩に出雲国を与える約束をしていながら毛利家と和睦したことでそれが果たせなくなったためか、このあと秀吉は茲矩を姫路城に呼び出して、望むところを訊いた。茲矩は琉球を所望した。そこで秀吉は団扇(うちわ)に「亀井琉球守」と書き花押を押して茲矩に与えたという。なぜ茲矩が琉球を望んだのか不明だが、茲矩はシャムとの交易に従事していたことがあり、東アジア情勢に詳しかったらしい(仲村清司氏 「本音で語る沖縄史」)。 もちろん、琉球は秀吉の領国でも何でもないので、この手法は、信長の羽柴筑前守や惟任日向守と同じなのだろう。琉球にとっては全く迷惑な話だ。
一方で、亀井茲矩の「琉球守」に対抗して、島津氏が執拗に干渉したようだ(仲村清司氏 「本音で語る沖縄史」)。琉球は俺のモノだ、ということか。長いこと琉球を巡って亀井氏と島津氏との間にギリギリの鍔ぜり合いがあったらしい。もっとも、亀井茲矩が「琉球守」の団扇をもらったとき、島津氏は九州統一へ邁進していた頃だ。ということは、九州征伐ののち豊臣家臣に「琉球守」がいることを初めて知って、猛烈に運動を開始した、といったところだろうか。

この鍔迫り合いの最中に島津氏は琉球への圧力を強めていく。亀井茲矩(かめいこれのり)との対抗上秀吉にアピールするため敢えてそうしたのか、あるいは九州統一を断念した島津氏が次なる目標としたものか、それとも琉球の身を案じればこそということがあるものなのかどうか、過去の善隣外交とは異なる対応を示していく。
尚永王の十六年(1588=日本の天正十六年)八月、島津義久(しまづよしひさ)は使者を尚永王に遣わした。その書には、次のように書かれていたという。
「方今(ほうこん)、天下一統し、海内(かいだい)風に向かふ。而して(しかして)、琉球独り(ひとり)、職を供せず。関白、水軍に命じ、国(琉球のこと)を屠る(ほふる)と。この時に及び宜しく使を遣はして謝罪し、貢(こう)を輸(ゆ)し職を修めば、即ち国永く寧か(やすらか)らん。ここに特に告げ示す」
近代戦の最後通牒のようだ。尚永王はこの恫喝が要因かどうか、病を得、三ヶ月後の同年十一月、二十九歳で没した。王位は一族で娘婿の尚寧王(しょうねいおう)が継いだ。そんな中でも、島津義久書状への対応は緊急事態とばかりに進められたらしく、同年の九月、琉球使者は島津義久に従って京の聚楽第(じゅらくだい)で秀吉に拝謁した。秀吉は翌尚寧王二年(1590=日本の天正十八年)二月二十八日付で尚寧王に書状を送り、土産の礼を述べ、さらに、
「吾、二三年内に当に明(みん)を討つべし。王は其れ(それ)、兵を発して之に会せよ」
と命じた。琉球としては大きな驚きだっただろう。次いで同じ尚寧王二年(1590=日本の天正十八年)八月、島津義久は尚寧王に対して、小田原を制した秀吉に祝儀の使者を送るよう書を遣わした。尚寧王は翌年の尚寧王三年(1591=日本の天正十九年)八月、使者を薩摩に遣わし、関白秀吉の関八州平定を賀した。ちょうどその頃、秀吉が翌年の朝鮮出兵と肥前名護屋城の築城を命じており、島津義久は同年(1591)十月尚寧王に書状を送り、関白の朝鮮への出兵命令と、薩摩・琉球に兵を出すよう命ぜられたこと、琉球は人口少なくいくさに馴れていないので兵を出す代わりに七千人の十ヶ月分の兵糧を送ること、名護屋城築城に参加する代わりに金銀米穀を送ること、を告げた。前後関係は分からないが、その頃秀吉も尚寧王に書簡を送り、朝鮮への将兵の派遣を命じ、もし従わない場合はまず汝が国を屠りすべて焼き尽くすであろう、と恫喝している。琉球は、この日本の動きを同年尚寧王三年(1591=日本の天正十九年)に二度、明に通報している(与並岳生氏 「新琉球王統史7」 『尚寧王』)
翌年、尚寧王四年(1592=日本の天正二十年、文禄元年)三月、日本の朝鮮出兵が始まった。この年、例の亀井氏と島津氏のつばぜり合いが決着をみた。 秀吉は、琉球における島津氏の立場を主張し続けた島津氏に対して文禄元年(1592)一月、琉球を島津氏の与力とするという結論を出した。そして亀井茲矩には、替え地として、これから遠征する予定である明国の浙江省台州(せっこうしょうだいしゅう)を与え、「台州守」としたという(与並岳生氏 「新琉球王統史7」 『尚寧王』)。 一月ということは唐入り軍渡海の直前なので、結論を急いだというところだろうか。
また、この年文禄元年(1592)は、亀井茲矩が琉球討伐を図るものの秀吉がこれを止めたという(与並岳生氏 「新琉球王統史7」 『年表』)。 

尚寧王五年(1593=日本の文禄二年)、尚寧王はようやく綾船を派遣し、軍役の代わりの兵糧毎を半分送った。島津義久は、過半調達珍重珍重、としながらも、残りの兵糧も送るよう要求した。しかし、翌年尚寧王六年(1594=日本の文禄三年)尚寧王は島津義久に書状を送り、残りの「軍役」については国が衰え調達し難い、と断っている。独立国家としての琉球の意地をみるようだ(与並岳生氏 「新琉球王統史7」 『尚寧王』)

朝鮮出兵が秀吉の死によって終結、日本では関ヶ原の戦いを経て徳川家康の世になっていく。琉球はこの間、尚寧王の冊封を請うことでゴタゴタがあったものの、つかの間の平穏と言えそうだ。しかし、時代の流れは一気に薩摩の琉球侵攻へと進んでいく。
尚寧王十四年(1602=日本の慶長七年)、琉球の帰国進貢船がなんと陸奥国の伊達領に漂着した。家康は、琉球人を全員無事に送り届けるよう伊達氏、および島津氏に命じた。家康にしてみれば、朝鮮出兵で断絶した明国との国交と交易を琉球に仲介させたく、琉球に恩を売ったわけだ。島津氏は琉球人を大坂で引き受け、無事に琉球へ送った。そして琉球に対して、謝礼使を家康に送ることを要求した。これとは別に、先に亀井茲矩が琉球を攻めようとしたのを島津氏が止めたことについても謝礼使を要求していたので、琉球は二件の謝礼使要求を受けたことになる。しかし、琉球は薩摩や日本に服属するのを警戒し、これに応えなかった。島津義久は、翌尚寧王十五年(1603=日本の慶長八年)二月、尚寧王に書を送り、謝礼使をこの夏あるいは秋に実現するよう圧力をかけた。さらに、薩摩では島津忠恒(しまづただつね=のちの家久)が家督を相続しており、これに対する祝儀の使いをも要求してきた。怒涛の要求に琉球は困惑したことだろう。島津忠恒に対する祝賀使は、同年(尚寧王十五年=1603=日本の慶長八年)九月、安国寺僧を送ったことで対応した。しかし、家康への謝礼使・亀井阻止に対する謝礼使・朝鮮出兵の際の軍役不履行完全実施については、何らなされず、島津義久から尚寧王へ督促の書状が送られた。(与並岳生氏 「新琉球王統史7」 『尚寧王』)

また、同じ年(尚寧王十五年=1603=日本の慶長八年)宮古島の船が大破して肥前平戸に漂着した。松浦氏は替わりの船を与え、薩摩へ向けて送り出したが、この船は島津氏に何の連絡もせず帰国してしまった。これとは別に、この年には琉球船が甑島(こしきじま)に漂着したので、薩摩ではこの船の乗組員に対し、平戸に漂着した船の件で薩摩は隣国松浦氏に対して面目を失った、と怒りを表し、これを琉球へ伝えさせている。琉球では、この漂着船の件での謝礼の使いを送っているが、肝心な家康の謝礼使は一向に動こうとしなかった。「島津国史」に、島津忠恒(のちの家久)が琉球の無礼に怒り軍勢派遣を行おうとして義久に止められている話が載っている。琉球のこの態度は、独立国家としての誇りがなさしめることとして当然と思うが、それ以外に、琉球が宗主国である明の強大な軍事力を後ろ楯として期待していたことも想定される(与並岳生氏 「新琉球王統史7」 『尚寧王』)

尚寧王十七年(1605=日本の慶長十年)、中国福州から琉球へ帰国途中の琉球の接貢船(せっこうせん)が大風に遭い、またも平戸に漂着した。これに対し幕府は、貨物の没収、漂着船を琉球へ送り返すのに島津氏は関わらないこと、伊達藩漂着船の聘礼問題を始末することを松浦氏に命じた。島津氏に任せていたのでは何時まで経っても謝礼使は無理、というよりも明との国交正常化と貿易は無理、という判断だろう。島津氏にとっては全く面目を失ってしまった(与並岳生氏 「新琉球王統史7」 『尚寧王』)。 一説に、島津忠恒(家久)はこのとき琉球征伐を決意したという(仲村清司氏 「本音で語る沖縄史」)。 その後どういう経緯があったかよく分からないが、漂着船は薩摩を経由して琉球へ帰された。漂着船の乗組員・牛助春(ぎゅうじょしゅん=我那覇親雲上秀昌がなはべーちんしょうしゅう)は薩摩から、琉球征伐の先導を繰り返し求められたが、固辞したという(与並岳生氏 「新琉球王統史7」 『尚寧王』)

翌尚寧王十八年(1606=日本の慶長十一年)、島津忠恒は江戸へ上り将軍秀忠に拝謁、その後伏見にて大御所家康に拝謁し、その諱を賜って「家久」となる。このとき、島津家久は家康に対して、琉球の非礼を訴え、「大島討伐」を請い、許可を得た(与並岳生氏 「新琉球王統史7」 『尚寧王』)。 
琉球討伐ではなく、なぜか奄美大島だ。島津氏にとっては、まず大島を攻め取りその後に琉球を攻めるつもりだったのか、大島を攻めれば聘礼問題で琉球が折れてくると判断したのか、財政上か何かの要因で大島出兵が妥当だったのか、あるいは家康が琉球のことを明との交渉・貿易の仲介役として期待しているのを島津氏としては知っているので、「大島入り」を持ち出して家康の腹を探るつもりだったのか、分からない。
大島は、三山時代よりも以前、英祖王(えいそおう)のときに琉球(中山)に入貢したという(与並岳生氏 「新琉球王統史1」 『英祖』)が、これは伝説の範疇だと思う。ずっと時代が下って、第一尚氏最後の王・尚徳王(しょうとくおう)は喜界島(きかいじま)を討伐しており(与並岳生氏 「新琉球王統史4」 『尚徳王』)、ということは、この頃には奄美大島は琉球の属領となっていて、英祖王はそこを素通りして喜界島を攻めることができたと考えられる。それでも、ずっと安泰が続いたのではなく、尚清王(しょうせいおう=第二尚王統の基礎を作った尚真王の子)のときには謀叛を起こした大島を二度にわたって討伐したという(与並岳生氏 「新琉球王統史6」 『尚清王・尚元王・尚永王』)

家康の許可を取り付けた薩摩は大島征伐の準備を進めたことだろう。しかし、この計画は翌年に延期される。この年、尚寧王十八年(1606=日本の慶長十一年)、明の尚寧王への冊封使が琉球へ来たためだ。尚寧王にとっては即位十八年目にしてようやくの冊封であったわけだが、徳川幕府にとっては冊封使を通じて明との交渉の糸口がつかめるかもしれないとの期待をもったことが推測される。島津義久は尚寧王に対し日明貿易の仲介を行うよう勧告する書を、さらに島津家久は「大明天使」(冊封使)宛の文書を、琉球へ帰る使者に託している。しかし、結果として日明交渉に進展はなかった(与並岳生氏 「新琉球王統史7」 『尚寧王』)

「大島入り」が「延期」となったというのは表現の上でのことであって、事実上は白紙に戻ったのだろう。現代の会社の中でも時々あることだ。
翌尚寧王十九年(1607=日本の慶長十二年)も大島入りは行われなかった。冊封使に出したつもりの文書の返答を待っていたのかもしれない。しかし、何の動きもないままであったので、その翌年尚寧王二十年(1608=日本の慶長十三年)二月、家康は島津氏に来聘問題の交渉を命じた。琉球と薩摩の間で使者が行き交ったが、交渉に進展はなかった。とうとう業を煮やしたのだろう、島津義弘は駿府へ使者を派遣し、家康に対し琉球侵攻を申し入れ、家康は了承した(与並岳生氏 「新琉球王統史7」 『尚寧王』)

大島侵攻から琉球侵攻に方針が変わっているが、どのような思惑があったのか、よく分からない。一向に埒のあかない琉球王朝に対し、一気に決着をつけるため、といったところだろうか。

家康の承認を得た琉球侵攻であったが、幕府は何とか止めようとする動きを見せる。同年八月、家康は薩摩に対し、山口駿河守直友(やまぐちするがのかみなおとも)を通じて琉球出兵の準備を指示し、同時に今一度の交渉を命じた。九月五日にも同様の書状を出しているが、一方の薩摩は琉球侵攻準備を進め、九月六日「琉球渡海之軍衆御法度之条々」を発した。幕府は十一月二十三日本多正純(ほんだまさずみ)が島津家久に、琉球侵攻は無用、と書を送り、十二月山口直友は今一度家康の上意を得るように、との書を家久に送っている(与並岳生氏 「新琉球王統史7」 『尚寧王』)
ただ、本多や山口の書状に島津氏がどう対応したのか、不明だ。

そして翌年、琉球侵攻が行われた。以上の経緯から分かるように、薩摩の琉球侵攻は、よく言われる対外交易ルート独占のような単純な動機ではないということだ。
尚寧王の二十一年(1609=日本の慶長十四年)二月六日、樺山権左衛門久高(かばやまごんざえもんひさたか)を総大将、平田太郎左衛門増宗(ひらたたろうざえもんますむね)を副将とする薩摩勢三千は鹿児島を出航、山川で風待ちののち、三月四日山川を出航した(与並岳生氏 「新琉球王統史7」 『尚寧王』)

薩摩側史料「琉球渡海日々記」によると、三月四日の夜、口之永良部島に到着、三月七日大島の深江ヶ浦に着き、翌八日討伐が行われている(今帰仁村教育委員会 「なきじん研究3」)。 この深江ヶ浦というのは笠利湾(のどこか)のことで、ここに琉球王国の出先機関である「蔵元(くらもと)」があって、それを島津軍が攻略したという(与並岳生氏 「新琉球王統史7」 『尚寧王』)
三月十二日深江ヶ浦を出港、十二日から十五日まで大和浜(大島の中央部)に逗留、十六日出港し西の古見(大島の西端の西古見)に到着、風待ちや雨のために逗留して、三月二十日出港、秋徳(大島の隣の加計呂麻島の南部)、三月二十一日徳之島の亀津(徳之島町役場付近)に到着して、翌二十二日山狩りをしている(今帰仁村教育委員会 「なきじん研究3」)。 徳之島では、琉球の統治役所「平等所(ひらじょ)」があり、その守備隊が島津軍を迎え撃っている。島津軍は鉄砲を浴びせながら進軍し、守備隊は山中へ逃げ込んだ。そこで島津軍は三月二十二日山狩りをし、守備隊長である「番衆主取(ばんしゅうぬしどり)」与那原親雲上朝智(よなばるべーちんちょうち)を捕えた。朝智は引き出され処刑されようとしたとき、薩摩軍の中に知り合いの陣僧がいて、そのおかげで助かり、捕虜として琉球へ連れて行かれた。この朝智の四代の孫が、琉球の国劇「組踊(くみおどり)」を創始する玉城朝薫(たまぐすくちょうくん)だそうだ(与並岳生氏 「新琉球王統史7」 『尚寧王』)

その後の島津軍は、三月二十四日に沖永良部島、三月二十五日に「こほり」に着いた。今帰仁の東、古宇利島のことだが、ここではもう少し範囲を広げて運天港と考えたほうが良さそうだ。「郡の運天」を「船元」−−すなわち根拠地あるいは母港という意味だろう−−としたと記されているからだ(今帰仁村教育委員会 「なきじん研究3」)。 いよいよ薩摩の軍勢が沖縄本島に上陸したわけだが、そのときの首里あたりの様子を「喜安日記」では、「今帰仁に兵船着と聞へしかば、国中の騒動不斜。家財道具を東西南北へ運出する様、前代未聞の事共なり」と伝えている(与並岳生氏 「新琉球王統史7」 『尚寧王』)

着実に侵攻してくる薩摩軍への対応として琉球では、薩摩軍が大島に入ったとの報が三月十日に入り、天竜寺長老と北谷親雲上(ちゃたんべーちん)を使者として急派している。薩摩側の記録「琉球渡海日々記」に三月二十三日徳之島沖を琉球船が大島へ向けて駆けて行った、とあって、すでに徳之島での戦闘と山狩りを終えている頃、琉球の使者は大島へ向かっていたことが分かる。その後、島津勢が今帰仁に到着すると、二度目の使者として西来院菊隠(せいらいいんきくいん)長老・名護良豊・江洲栄真らを三月二十六日、派遣した(与並岳生氏 「新琉球王統史7」 『尚寧王』)

島津勢は三月二十六日は休日、三月二十七日に今帰仁城を焼き討ちにした(今帰仁村教育委員会 「なきじん研究3」)。 一方、首里を発った琉球の使者は、陸路は敵兵が充満していると聞き、途中の倉波(くらは=恩納村久良葉)で夜明けを待ち船に乗って、三月二十七日今帰仁に到着した。このとき、薩摩軍の「大将軍は今帰仁城へ勤め」に出ていて会えなかった。つまり今帰仁城を攻め立てていたのだ。琉球使者・菊隠らは、島津方の大慈寺龍雲らと対面、和睦の交渉に臨んだが、島津方は和睦の話は那覇で行う、と取り合わなかったので、使者はその日夕刻帰った(与並岳生氏 「新琉球王統史7」 『尚寧王』)
今帰仁城での戦いは詳しいことは分からない。「なきじん研究3」では、戦国時代の戦争のような戦闘をした様子はみられない、とあり、「新琉球王統史7」には、北山監守・今帰仁按司朝容(ちょうよう)がグスクで抵抗したので平田太郎左衛門増宗が討伐した、とある。
戦闘がなかったとする根拠は、「琉球渡海日々記」の「今きじんの城あけのき候」と、今帰仁城は無人だったことからきているようだ(今帰仁村教育委員会 「なきじん研究3」)。 しかし、同書にはそれに続けて、「今きじんの城あけのき候。巳ノ刻程に、俄かに打まはりて候て、方々放火共候。」とあるので、無人と見えた今帰仁城だったが、急に射撃(弓矢か?)を受けたのであちこちに放火して戦闘に及んだ、と読むのが自然ではないだろうか。このときの北山監守は五世の向克祉であるが、克祉というのは諱であり、名乗りが朝容(ちょうよう)(今帰仁村教育委員会 「なきじん研究3」)。 そして、今帰仁按司・克祉は今帰仁城焼き討ちの翌日、三月二十八日に死亡している。運天の大北(うーにし)墓には歴代の北山監守が葬られていて、二世の介昭・四世克順・記名のない人物・六世縄祖・七世従憲らの名が記されているという。ここで、記名のない人物が、五世の克祉だと考えられている(今帰仁村教育委員会 「なきじん研究3」)。 島津氏に直接刃を向けた人物なので名を伏せた、と考えれば、やはり今帰仁城では薩摩が焼き討ちにするほどの激しい戦闘があったと考えて良さそうだ。

今帰仁城を落とした薩摩軍は、三月二十九日運天港を発ち読谷の大湾(おおわん)に到着、ここから兵を二つに分け陸路と海路で南下した。四月一日海路の薩摩軍は那覇港に侵攻、三司官のひとり謝名親方利山(じゃなおやかたりざん)鄭ドウ(ていどう・・ドウはしんにょうに同)が豊見城親方盛続(とみぐすくおやかたせいぞ=毛継祖もうけいそ)とともに那覇港の守備にあたっていた。港口には屋良座森(やらざむい)という最新式の砲台と、その対岸の三重城(みいぐしく)という要塞を構え、また港口の海中には鉄鎖が張り巡らされていたといわれ、近づいてきた薩摩軍を一旦は撃退させたという。一方、陸路は樺山久高が自ら兵を率いて民家に放火しながら進軍、浦添城と龍福寺を焼き払って首里を目指した。琉球軍は越来親方(ごえくおやかた)率いる百名が修理の北、大平橋(おおひらばし)で薩摩軍を迎え撃ったが、火縄銃を使う薩摩軍に苦戦、城間鎖子親雲上盛増(ぐすくまさすべーちんせいぞう)が腹を撃たれ戦死、琉球兵は総崩れとなった。薩摩軍は首里城下の民家を焼き払った(仲村清司氏 「本音で語る沖縄史」)

琉球の尚寧王は降伏、首里城は薩摩軍に接収された。このとき三司官のひとり浦添親方(うらそえおやかた)の三人の息子が若干の兵を率いて首里城を脱出した。薩摩方は法元二右衛門(ほうげんにえもん)と正尊坊(せいそんぼう)がこれを追い、識名原(しきなばる)で追いついて合戦となった。三兄弟は討ち取られたが、薩摩側も法元が負傷、正尊坊は討死した。これを「識名原の戦い」という(与並岳生氏 「新琉球王統史7」 『尚寧王』)
こうして琉球国は、明(清)の冊封を受けながら、一方で薩摩の属国という二国に両属する国となった。尚寧王は薩摩に連行され、翌年尚寧王二十二年(1610=日本の慶長十五年)八月十六日、駿府で家康に拝謁、八月二十八日江戸で将軍秀忠に拝謁した。家康も秀忠も、尚寧王を臣下ではなく外国の来賓として厚くもてなしたという。尚寧王は明治維新以前で唯一江戸に上った琉球王となった。尚寧王が琉球に帰国するのは翌年尚寧王二十三年(1611=日本の慶長十六年)十月二十日である。帰国直前、尚寧王への知行目録により奄美諸島は薩摩の直轄地とされ、また謝名親方鄭ドウ(じゃなおやかたていどう)は処刑された(与並岳生氏 「新琉球王統史7」 『尚寧王』)

薩摩に焼き討ちされた今帰仁城は、その後復興されることはなかった。焼き討ちののち城の周辺にあった今帰仁村と志慶真村が「場所が良くない」という理由で海岸の近くへ移動すると、今帰仁按司(北山監守)六世の縄祖は不便だということで海岸近くの今帰仁村(?)に住むようになった。監守制度が形骸化していたことも要因とされる。今帰仁城は居城としての機能を失ったのだ。次の七世従賢のとき今帰仁按司は首里へ移り住んだ。これ以降、明治維新に至るまで今帰仁按司は代々一族が継いでいくが、今帰仁城は打ち捨てられていたようだ。第十世宣謨のとき、今帰仁城の土地を郡民に授ける問題が起きたが、宣謨は「今帰仁旧城図」を作成し、城地を子孫への永代願地にすることを願い出た。どうやら許しを得たらしく、城地内に「山北今帰仁城監守来歴碑記」を立てた。これは現在でも残っている(今帰仁村教育委員会 「なきじん研究3」)

最後に、源為朝上陸伝説に触れておきたい。源為朝(みなもとのためとも)というのは、もちろん鎮西八郎源為朝(ちんぜいはちろうみなもとのためとも)のことだ。その為朝が琉球へ来たことがある、という。
琉球にやってきた経緯は諸説あるようだ。一つは、為朝が九州へ流され大暴れしていたころに琉球に渡ったとするもの、別の一つは保元の乱ののち為朝が伊豆大島へ流され、また大暴れしていたころとするもの、さらに伊豆大島から八丈島まで征服して八丈島から船出したときに琉球に渡ったとするもの、があるようだ。いずれの場合も、海上で暴風雨に遭い、運を天に任せて流れ着いたのが、琉球の運天(うんてん)、すなわち今帰仁の外港ともいうべき運天港である、となっている。やがて地元の大里按司(おおざとあじ)の妹と恋仲になり子が生まれたが、為朝は母子を残して日本へ帰った、このときの子がのちの舜天(しゅんてん)である、というのが伝説のあらすじである。舜天は、神話の天孫氏を除いて、初めて琉球の王となったとされている人物だ(与並岳生氏 「新琉球王統史1」 『舜天』)。 この伝説を下地にして江戸時代に滝沢馬琴が書いたのが「椿説弓張月」であるが、小島摩文氏によると、この伝説は現代でも沖縄の子供たちには身近なものであって、本当の話だと信じている子供も多いのだそうだ(小島摩文氏 『外から見た琉球』 「新薩摩学シリーズ3薩摩・奄美・琉球」)
まあ、伝説なので、その史実の有無を問うのは野暮というものだが、明治三十年代から大正にかけて史実かどうかの論争があり、今では、根拠のない作り話である、というのが定説になっているらしい。作り話を「作った」動機としては、1650年に「中山世鑑」を著した向象賢=羽地朝秀が、薩摩との軋轢を避け、「島津も琉球王朝も同じ源氏の出である」と民衆を導くため、というのが定説における解釈のようだ(新人物往来社 日本城郭体系1 『今帰仁グスク』)。 ただ、この解釈については、すでに明治時代に東恩納寛惇氏が指摘しているように、薩摩の琉球入りより以前、袋中上人が為朝の琉球上陸の話を記していたり(新人物往来社 日本城郭体系1 『今帰仁グスク』)、室町時代に建仁寺の月船長老の文集にも記されていて、薩摩に気を遣うようになる以前から琉球ではすでに伝説となっていたという(与並岳生氏 「新琉球王統史1」 『舜天』)。 ここでは、これ以上立ち入らないことにして、ついでに与並岳生氏は琉球に上陸した人物を為朝ではなく阿多平四郎忠景(あたへいしろうただかげ)と推定している新説を紹介するに留めよう。




■今帰仁城へGO!(登城記)
平成20年(2008)6月7日(土)

今日は世界遺産・今帰仁城にやってきた。残念ながら天候は雨模様だ。
城の入口、「入場券」を切る事務所は無人でネコだらけ、チケットは自分で箱に入れてください、となっていたが、なんともノンビリしたものだ。
無人のキップ切り小屋

まずは正門、「平郎門」だ。
平郎門の正面

台風の多い地方のためか、ドッシリとした重厚感ある石の門だ。門の両側に二つずつ、穴が開いている。矢狭間か?と思ったが、門の厚みからいってそんなはずはない。
穴が二つ

と思って裏に回ると、何と石の小部屋になっていて、そこからのぞき窓のように開いている穴だった。門番の部屋か。ということは、矢狭間としても機能したのだろう。
門番所か?

門からまっすぐ石畳の道が伸びているが、この道自体は戦後に作られたのだそうだ。
その突き当たりに「大庭(うーみやー)」と呼ばれる空間がある。当ホームページでは便宜的に曲輪(郭)と呼ぶことにして、「大庭(うーみやー)」郭だ。
ここは祭祀の行われる曲輪だそうだ。結構広いぞ。
大庭

そこから左(北)へ行くと、「御内原(うーちばる)」郭だ。ここには女官部屋があったそうで、いわば大奥みたいなものか。
御内原

御内原(うーちばる)からの眺めは素晴らしい。晴れていれば、きっと綺麗だっただろう。眼下には、「大隅(うーしみ)」郭が広がっている。かつての武闘訓練場だそうだ。
御内原からみる大隅

御内原(うーちばる)から東にいくと、今帰仁城の「主郭」だ。ここからは建物の礎石が発掘されたということで、現地案内板によると北山監守時代の建物の跡だそうだ。
主郭の礎石
礎石の間に丸い石組がある。建物の中に井戸があったのか?と不思議に思って、後で案内所で質問したところ、井戸ではなく炉の跡では?とのことだった。

主郭から下をのぞくと、「志慶真門(しじまじょう)」郭が見える。この高低差をよじ登るのは大変だろう。
写真中央右、石垣が崩れているところが志慶真門の跡

その志慶真門(しじまじょう)郭へ下りてみる。かなり広いし、郭自体が大きく傾斜している。その中を平坦に削って建物を建てたのだろう、それを示す杭が立っている。
広々した志慶真門郭

郭の南端には石垣が崩れているが、ここが、志慶真門(しじまじょう)の跡だそうだ。城の構造から、搦め手門にあたる城門だ。ということは、尚巴志がひそかに手下を送り込んだのは、ここなのだろうか。
崩れた門跡

それにしても、よくこれだけの石をこんな山、谷、斜面の中に積み上げたものだ。と感心しながら今帰仁城を後にした。




■今帰仁城戦歴

◆1416年(明の永楽14年)、あるいは1422年(永楽20年)、尚巴志は今帰仁城に北山王・攀安知(はんあんち)を攻めた。今帰仁城は堅城で三日間の攻撃にビクともしなかったので、尚巴志は計略を用い、攀安知の将・本部平原を離反させて落城させた。北山王朝は滅びた。(与並岳生氏 「新琉球王統史2」)

◆尚寧王21年(1609=日本の慶長十四年)三月、薩摩の琉球討伐が行われ、三月二十七日今帰仁城を焼き討ちにした。北山監守は・克祉は落城の翌日死亡した。(今帰仁村教育委員会 「なきじん研究3」)


以上



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